所沢飛行場とアンリ・ファルマン機 パート1
所沢なび ボランティアライターの“ぶん”です。
所沢は日本初の「所沢飛行場」航空発祥の地とされています。この地で、徳川好敏大尉の操縦するアンリ・ファルマン複葉機が飛行した、所沢航空記念公園にまつわるお話です。
【日本の航空のスタート】
明治36年(1903)ライト兄弟による有人の動力飛行機で世界初の飛行に成功した。
明治42年(1909)フランスにおける国際飛行大会や欧米において航空技術が発達し、日本においても航空機の研究と製作を早急に行うべきと、海軍、陸軍から意見書や報告書が提出された。こうして研究機関として具体化されたのが、今から111年前、明治42年(1909)7月30日「臨時軍用気球研究会」は勅令によって発足された。研究会の目的を遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究と定められた。


【アンリ・ファルマン機の購入】
明治43年(1910)4月11日、徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉は、「飛行機操縦法の修得」と「飛行機購入」のため、シベリア鉄道を経由してヨーロッパに向けて旅立った。
徳川大尉はフランスへ、日野大尉はドイツへ。徳川大尉はフランス郊外のボァザン会社を訪れ、生まれて初めて飛行機というものを眼にした。次に訪れたのが古い町エタンプ、ここでアンリ・ファルマン学校へ入学。教官と練習生が同乗して行う飛行練習を10回程度行っただけで単独飛行に臨むという簡素なものでした。そして、フランス第289号の飛行機操作免状を取得し、もちろん日本人第一号です。
飛行機の操縦法を学んだ徳川大尉はアンリ・ファルマン機のほかに、プレリオ機を購入。一方ドイツに行った日野熊蔵大尉はハンス・グラーデ型とライト型の飛行機を購入。三井物産の手によって船便で横浜に到着し、中野の気球隊の施設で組み立てられ、その後陸軍代々木練兵(現在:代々木公園)で走行試験が行われた。
飛行機の価格について、ファルマン式複葉機(50馬力)が1万8千円。ブレリオ式単葉機(50馬力)1万5千603円78銭。グラーデ式単葉機(24馬力)1万8千836円。ライト式複葉機(30馬力)が1万2千726円。
その頃、銀座木村屋総本店の「あんパン」は、明治38年に1個1銭。「うどん・そば」は明治37年には2銭。明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらいだったようです。



【所沢が飛行場に選ばれた理由】
飛行場選択のため、明治43年(1910)2月から、「臨時軍用気球研究会」は海外の情報などを参考に、飛行場の条件に適した候補地として4つが選ばれた。
・栃木県太田原町(太田原市)
・千葉県下志津(佐倉市)
・神奈川県相模
・所沢町~松井村
所沢町が選ばれた理由は「落雷の危険が少ない」、「起伏が少ない」、「東京に近い」等があげられた。所沢飛行場の敷地は約76万2千平方メートル(東京ドーム球場16個分)住宅、畑、山林、墓地、その価格は2万4,268円9銭でした。しかし、買収価格に対する不満から土地買収は難航し、贈与金をだすことでその収捨がはかられた。
滑走路は飛行場南側に東西400m、幅50mの滑走路と飛行機4機を収容する格納庫、3階建ての気象観測所を備えた「所沢飛行場」が完成した。
飛行機を運搬するために所沢駅から新道を造り、それが現在の「飛行機新道(ファルマン交差点から北に下る道路)」と呼ばれている道路です。この頃の所沢町の人口は5千人~6千人、織物の町として交通も発達していた。


【所沢飛行場での初飛行訓練】
明治44年(1911)4月所沢の飛行場もようやく整備され、飛行訓練に使えるようになった。風速5メートル突になると飛べないので、飛行訓練は気流の静かな早朝に決められていた。いよいよ当日がくると大変な数の見物人でした。飛行場の西側には棧敷(さじき)が設けられ一人十銭ずつで見物させ、おにぎり、草餅、ゆで玉子等の屋台が並ぶ始末であった。元気な少年らは東京から所沢まで、夜通しで歩いてくるのでした。

第一回飛行演習は4月5日から15日の間、予定では4日からであったが、強風のため飛行できなく、5日からに変更になった。
文献を読む中、徳川大尉の乗るアンリ・ファルマン機の「初飛行」に関して諸説があった!
書籍「所沢市史」には「4月5日の初飛行は午前4時に開始され、まず徳川大尉の乗るファルマン機が5時10分に飛行したが約15メートルまで上昇したところでシャフトの具合が悪化して約1分で降下した。シャフトに砂塵(さじん)が溜まってしまったためという。」と掲載されていた。
また、書籍「初飛行(東京朝日新聞)」には「所沢飛行場で5時10分、(中略)ところが、10メートルほど浮上したとき、急に爆音が消え機は勢いを失い、あわてて自動車が飛び出した。幸い事故ではなかったが、この故障は好敏には衝撃であった」と「所沢市史」と同じような内容の掲載であった。
一方他の書籍「所沢陸軍飛行場史」・「日本航空発祥地100周年所沢」・「所沢飛行機の経歴(飛翔)」その他には、「4月5日の初飛行は徳川大尉の乗るアンリ・ファルマン機が午前5時37分に飛場し、高度約10メートル、距離800メートル、1分20秒の飛行時間を記録した。」又は「成功しました。」と掲載されていた。
さらに文献を調べていくなか、興味ある書籍に出会った。村岡正明氏「初飛行」の一部を抜粋すると「この時期の日本国内で、飛行機が飛ぶ様子を実際見たことがあった者は、田中館・日野熊蔵 ・ 徳川好敏、滞仏中にライト機の飛行を見学した東大の広井勇教授、と森田新三だけであった。(中略)飛行機の車輪が少しでも地面を離れたのを見ると、「飛んだ、飛んだ」と声を上げたのは、代々木ではごく普通の光景だった。それを考えると、飛行機の飛行とはどのようなものであるかをまったく知らず。」と書かれてあった。
具体的に解き明かすことができず、吾妻分館の協力の元、当時の新聞「明治44年4月6日東京朝日新聞」と「明治44年4月7日読売新聞」を入手できましたが長文になるので、後日改めて新聞記事は続編記事「パート2」にてご紹介いたします。


【所沢住民の飛行観覧はどうだった?】
飛行演習日、4月4日に初飛行の予定であった。一大行事に対して所沢町民は?
所沢町民1300戸と松井村民500戸には飛行場所特別観覧所が設けられた。観覧入場券を役場で作って、5人以下の家庭には1枚、5人以上には2枚、12人以上には3枚の割合で配布した。しかし、調査が面倒なので各町に各戸1枚として入場券が配られた。ところが陸軍からは飛行時間の連絡はなかったようで「北田斧吉氏日記」や「緒星新助氏日記」によれば、いずれも初日の飛行を見ていない。彼ら世話人も午前7時に飛行場に行ったが、すでに終了していたのだそう。
【国産初の軍用飛行機の開発】
明治44年(1911)7月、徳川大尉と日野大尉がフランスから買ってきた飛行機は、練習を重ねるにつれ、破損したり、故障したりしていずれ使えなくなると考え、徳川大尉は設計にとりかかった。アンリ・ファルマン機を参考にいくつかの改良点を加えた飛行機を制作し、同年10月25日、飛行試験が行われ、速度72キロメートル、高度85メートル、飛行距離1600メートル、国産初の軍用機は成功した。
エンジンはフランス製といえ、機体はすべて日本人の手によって造られもので、この飛行機は臨時軍用気球研究会の「会」を採って「会式第1号機」と名付けられた。その後、徳川大尉は明治45年(1912)6月には会式二号機、さらに三号機、四号機が11月まで所沢飛行場で制作。

【日本最初の所沢陸軍飛行学校】
大正8年、将校や下士官の教育を目標として、所沢で日本最初の「陸軍航空学校」が創設された。
大正10年に「陸軍航空学校」分校として、下志津(千葉県千葉市)ならび明野(三重県伊勢市)が設けられ、所沢本校は陸軍総本山的役割を担うことになった。
大正13年「陸軍航空学校」は改めて「所沢陸軍飛行学校」と改称された。その後、昭和10年「所沢陸軍飛行学校」の機関科を分離独立し、「陸軍航空技術学校」が設立した。昭和12年4月「陸軍飛行整備学校」が設立し、昭和20年の終戦まで、日本の航空技術の発展に大きく貢献した。それゆえ所沢は「日本の航空発祥の地」といわれている。
文献を読んでいる中、西武新宿線で所沢駅から東村山駅に向かう途中、車窓から見える国際航空専門学校は、場合によっては「陸軍飛行学校」と関係あるのではないかと思い、いろいろ調べた。書籍「日本航空発祥地100周年所沢」に「1961年(昭和36年)に徳川好敏氏を初代名誉校長として開校した国際航空専門学校が前進です。」とあり、また国際航空専門学校のホームページにも同様のことが掲載されていた。
参考文献:引用 所沢市史・所沢陸軍飛行場史・日本航空発祥地100周年所沢・航空機のテクノロジー・日本のパイオニアたち・飛行機物語・日本陸軍軍用機パーフェクトガイド・ところざわ歴史物語・埼玉県の歴史・所沢航空公園資料 ・ 埼玉の日本一風土記 ・ 所沢飛行機の経歴「飛翔」 ・ 空の幕あけ所沢「雄飛」 ・ 初飛行 ・ 陸軍航空史 ・ 東京朝日新聞(明治44年4月6日)・読売新聞(明治44年4月7日)