今から690年前の鎌倉・南北朝時代の武将、新田 義貞!
「所沢なび」ボランティアライターの“ぶん”です。
今回は今から約690年前「鎌倉・南北朝時代の武将、新田 義貞(にった よしさだ)」を取り上げてみました。
昔、野老澤(ところさわ)は上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも重要な鎌倉街道上道(かまくらかいどう かみつみち)の主要な宿駅であった。鎌倉末期、世は戦乱の時代になり、野老澤(ところさわ)でも小手指ヶ原を中心に激しい戦いが繰り広げられた。その一つとして、新田義貞に関係する遺跡など史跡の多くが所沢市内の鎌倉街道上道に沿って多く残されています。
まずは八国山の「将軍塚」です。新田義貞が戦の際に陣を敷き、軍勢を指揮した場所とされています。「将軍塚」は、旧多摩郡域(現東村山市)と旧入間郡域(現所沢市)の境に位置する八国山にある塚です。かって駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)の八カ国の山々が眺望できたことに由来すると言われています。
《将軍塚》
【元弘3年(1333年)5月11日のゆくえは?】
上野国新田症を本拠地とする新田義貞は元弘3年(1333年)5月8日、群馬県新田町の生品神社(いくしなみようじん)で旗揚げをし、利根川を渡り、鎌倉街道沿いを一路南下して、11日には小手指ヶ原に至ります。足利氏らの勢力が加わり、軍勢は総勢20万7千騎になった。一方桜田貞国率いる鎌倉幕府勢6万余の騎と言われています。新田軍と桜田軍の両軍は緒戦となった「小手指ヶ原の戦い」は30回も激しく戦ったが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、鎌倉幕府軍は久米川(東京都東村山)退いてそれぞれ陣をとった。新田義貞と鎌倉幕府軍と激戦を交えたところが「小手指原の戦い」といわれ、「小手指ケ原古戦場跡の石碑」があります。場所は所沢市立埋蔵文化財調査センターの横の道路を100メートルほど進んだところです。
(小手指ヶ原戦場跡の石碑)
新田義貞の戦いにちなんだ「白旗塚」は義貞が源氏の白旗を立てた場所といわれています。「小手指ヶ原戦場跡の石碑」から細い道の50メートルほどのこんもりとした森が見えるところです。
(白旗塚)
「誓詞橋(せいしがはし)」は幕府を倒す誓いをした場所と言われています。「誓詞橋」は所沢入間バイパス通りと小手指ヶ原古戦場通りの交差点にあります。
(誓詞橋)
【元弘3年(1333年)5月12日のゆくえは?】
翌12日朝、南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との第二戦が行われ、小手指~久米川付近で激戦をし、新田義貞は八国山突端の尾根に大旗をたてて指揮所を設け、眼下の久米川の原で北条軍と戦い、幕府軍は敗れて分倍河原(府中市)に向かって退却。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すが、最終的に元弘3年5月22日、鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅びました。
(久米川古戦場)
新田義貞と鎌倉幕府軍が小手指~久米川付近で戦いがあった場所が「久米川古戦場」東京都指定旧跡として、「都立八国山緑地」案内板に「久米川古戦場跡」が示されています。
「都立八国山緑地」入口の案内板から、東に進むと柳瀬川に架かる勢揃橋(せいぞろいばし)に出ます。「勢揃橋」の由来ですが、新田義貞公が鎌倉を攻めたとき、ここに全軍を勢揃したなど伝えがあり、そこから橋の名前がついたそうです。
(勢揃い橋)
鳩峰八幡神社は、八国山の近くの所沢市久米にある八幡神社です。鳩峯八幡神社の創建年代は延喜21年(921年)山城国男山(京都の石清水八幡宮)にある八幡宮から分祀したと伝えます。
(鳩峯八幡神社)
鳩峯八幡神社は新田義貞が鎌倉幕府を攻める際に当社で戦勝祈願して、詣でて兜を掛けたと伝えられるのが「兜掛けの松」です。旧蹟の碑はありますが、当時の松は枯れてしまい、今は小ぶりの松があります。
(兜掛けの松)
参考文献:所沢市史(下)・東村山市史・ところざわ歴史物語・久米の歴史・所沢史話・ふるさと久米 今と昔・新田義貞ゆかりの地、處澤